その丘からどんな景色がみえるのか ウスターシャービーコン

カズオ・イシグロの短編集「夜想曲集」のなかに「モールバンヒルズ(Malvern Hills)」という不思議な趣きの短編小説がある。
主人公はロンドンでミュージシャンを目指す若者だが、夏の休暇を利用してモールバンヒルズにある姉夫婦の経営するカフェに滞在する。彼はカフェを手伝いながらその夏のあいだ作曲をするつもりだ。主人公がカフェで手伝っていると、そこにスイスからの旅行者である老夫婦、ティーロとゾーニャが現れる。スイスでミュージシャンをしている二人だが、夫のティーロは人懐っこく、モールバンヒルズの景色の美しさ、人々の親切さを褒め称え、滞在を心から楽しんでいるようだった。一方で妻のゾーニャは終始不機嫌で、料理のサーブが遅いことに腹を立てている。主人公はそんなゾーニャの態度に反発し、夫婦が宿を探している、と言ったとき、とびきり評判の悪いB&B(ベッドアンドブレークファーストの略。イギリスで人気のある民宿の形態で、民家の一部を客に開放し、宿と朝食を提供する)を二人に紹介する。

この短編の中で、主人公はモールバンヒルズの丘の一つ、ウスターシャービーコンを登りそこのベンチに座ってギターを弾くシーンがある。調べてみると今住んでいるところから車で30分ほどの距離だ。ここでどんな景色が見えるのだろう、と思って実際に行ってみた。

イギリスの多くの駐車場は「ペイアンドディスプレイ」という決済システムをとっている。こで料金を払ってチケットを購入し、出てきたチケットをダッシュボードに置いておく。終日4.5ポンド。日本円で約630円といったところか。Covid-19の影響で小銭は受け付けておらず、カード払いのみだ。

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駐車場から鬱蒼とした森が続く。道の勾配は緩やかで、「登山」として行くと拍子抜けしてしまうだろう。登山というよりもハイキングというほうが正しい。

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五分ほど歩くとすぐに木々がなくなり、丘が見えてくる。日本の、しかも本州でこういう木々が生えない景色を見るためには標高2500メートルは上がる必要がある(森林限界という)が、ウスターシャービーコンの標高はたったの425メートル。イギリスには山という山はなく、丘がそこらじゅうにある。

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主人公がこの景色の中でギターを弾き、自分の作曲した歌を歌う気持ちもよく分かる。この景色のなかでならいいインスピレーションが浮かんできそうだ。

小説の中で主人公が歌を歌っていると、くだんのティーロとゾーニャが現れる。てっきり文句を言われると思って身構える主人公だったが、どういうわけかふたりともご機嫌で、主人公の歌をもっと聞かせてくれとせがむ。ゾーニャはあのときたまたま機嫌が悪かっただけで、今はティーロ同様たいそう愛想が良い。すっかりこのふたりのことが好きになった主人公は、自分が最悪のB&Bを紹介したことを思い出し、さりげなく他のホテルを紹介しようとするが、ふたりともそこが気に入っているのだ、と返す。

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折悪しく雲が出てきてしまったが、なんとか山頂まで到達した。

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山頂の付近でベンチを見つけた。きっと主人公がギターを弾いていたのもこんなベンチだっただろうと思う。

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後日、主人公は再びウスターシャービーコンでゾーニャと出会う。しかしその場にティーロの姿はない。どうしたのか、と聞くと二人は喧嘩してティーロは一人でウスターシャービーコンの山頂を目指して歩き出し、ゾーニャはここで手ぐすねをひいて待っていたのだ、と言う。二人が喧嘩した、と聞いた主人公はまっさきに自分がひどいB&Bを紹介したからだ、と責任を感じるが、ゾーニャに言わせるとそれは大した問題じゃないらしい。

ふたりのことをあえて「ミュージシャン」と書いたが、知っての通り、ひとくちで「ミュージシャン」といってもその中にはいろいろな種類がある。彼らはレストランで演奏させてもらって生計をたてており、決して裕福な暮らし向きとは言えそうにない。音楽の仕事だけでは子供に十分な教育を施すことができず、二人は両親からの援助を受けたことを主人公に語った。

ティーロはなにかにつけて自分は運がいい、とポジティブに考えるが、ゾーニャはそんなティーロに反発して最近は腹を立ててばかりだ。主人公との別れ際、ゾーニャは主人公に今後の展望はどうするのか、と尋ねる。もちろんロンドンに戻って夢のつづきを追うのだと答える。しかし、もしかしたらやらないかもしれない、と彼は本音を漏らす。

そんな主人公に対して、「ティーロなら絶対にロンドンで夢の続きを追うべきだと強く言うでしょうね、あなたは才能あるひとだから」とゾーニャは答えた。しかし、自分は強くは言えない、と肩を落とす。知っての通り音楽で生計を立てるのは生半可な覚悟では務まらない。

人生は「選択」の連続だ。このままさらに上に登っていくか、それともここでいいと引き返すか。丘の上には見たこともないような素晴らしい世界が広がっているかもしれないし、その逆にがっかりするような場所かもしれない。

このベンチで引き返したゾーニャと、丘を上っていったティーロ。夫婦の人生と邂逅した主人公は一体何を思い何を心に残したのだろう。そんなことを考えた。

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